棒の手の始まり


 棒の手は、尾張と三河の両国に永く伝承されてきた民族芸能です。

 その発祥は、各流派によってさまざまな説があり、定かではありませんが、日進市岩崎区の所有する『郷社祭事記録』によれば大永3年(1523年)に献馬と棒の手の祭事を行ったことが伝えられています。また、同区の『猿投祭礼記録』には岩崎村、本郷村の猿投祭りへの出始めは天文22年(1553年)、祭礼馬、鉄砲、槍、長刀、鎌、太刀を用いて祭礼を行ったとされており、市内宮口区の『猿投山記録』では、宮口村の猿投神社への献馬を明応2年(1493年)から行ったとされています。

 これら数少ない記録から、棒の手は今から500年ほど前の戦国時代に始まったと考えることができます。



 

 棒の手が生まれた背景も、残念ながらわかってはいません。農民が自衛のために修練したことを始まりとする農民武芸説と、修験道(山伏)が自己鍛錬した武芸を神前に奉納した神事芸能説の2つに大別されています。しかしながら、農民の武装を嫌う領主が、棒の手を許可しなかった背景には、戦の場合に農兵としての利用しようと考えていたのかもしれません。
 後の平和な世になると、この荒々しい芸能は若者の血気を発散させる手段として認められてきたと思われます。



 
 棒の手は戦国時代にすでに行われていたようですが、尾張、三河一帯にどのように広まっていったかも知られていません。
 前段『郷社祭事記録』で棒の手奉納を行った岩崎本郷城主丹羽氏清の孫氏勝が、天正13年(1585年)に伊保村を領し、猿投神社に献馬を行うようになりました。氏勝の嫡男氏次が伊保城主に就くと、彼を慕う岩崎城下民が、猿投神社参拝の帰途に伊保神社に立ち寄って、棒の手演じて旧主を慰めたともいわれています。尾張、三河地区の棒の手の発展に、丹羽氏が大きく関わっていたに違いありません。
 

 江戸時代に入ると、棒の手と武芸とをはっきり分離して、扱うようになります。時には戦に使われた棒の手の技が、五穀豊穣を願う奉納演技として演じられ、各地の特色が加味されることによって流派もおおくなっていったと考えられます。また、演技の途中に見得を切るような仕草は、江戸中期に人気を博した歌舞伎の影響を強く受けていると思われます。
 


沿革

豊田市棒の手保存会
会 長 柴田 和則
副会長 生田 静男
    近藤 秀俊
    小栗 一夫


●豊田支部A
下古屋保存会・井上保存会・高町保存会・天道保存会・上原保存会

●豊田支部B
猿投保存会・宮口一色保存会・宮口上保存会・宮口新田保存会・伊保保存会

●豊田支部C
松平保存会・中切保存会・山中保存会・松嶺、藤沢保存会

●藤岡支部
御作保存会・迫保存会・北一色保存会・飯野保存会・木瀬保存会

●足助支部
富岡保存会・五反田保存会・近岡保存会

●三河旭保存会
大坪保存会・押井保存会・杉本保存会

【192~200年】
猿投神社創建

【1554年】
見当流が編み出される

【1574年】
鎌田流が編み出される

【1573~1592年】
起倒流が編み出される

【1684~1687年】
藤牧検藤流が編み出される

【1956年】
愛知県無形民俗文化財に指定

【1958年】
愛知県棒の手保存連合会が結成

【2005年】
市町村合併により新豊田市棒の手保存会

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