棒の手流派の源流を大別すると、日本古来の武道にのっとり剣術の型を基本として創案されたもの、修験者による呪術的な要素によるものの2つがあったといわれています。
江戸末期の最盛期には、数えきれないほどの流派がありましたが、他流に合流したり、中断して消滅してしまったものもあり、現在では19を数えるにとどまっています。なお、この流派の中には、村落の因果関係によって同じ系統の流派であっても呼び名を別としていたり、文字が誤って伝わってしまったものもあるようですが、これを改めるには至っておりません。
豊田に伝承される棒の手については、江戸時代末から明治期になってはじめられたものが多く、【見当流】【鎌田流】【起倒流】【藤牧検藤流】の4つの流派となっています。いずれの流派ももとは尾張から始まったものとされています。
天文23年(1554年)加賀の浪人本田遊無が編み出した棒術です。遊無は若年にもかかわらず文武両道の達人で、神を崇敬し、宇佐八幡宮に37日間参籠してこの奥義を身につけたといわれています。
当時尾張の織田信長は、駿河の今川義元と争っていました。信長は兵力不足を思い、農民に武芸を身につけさせ、戦の場合に農兵を参加させようと遊無に命じました。しかし、天正10年に織田家没落後、遊無は見当流棒の手を広く世間に普及しようと諸国を遍歴し、品野村(瀬戸市)で棒の手の指導にあたりました。
三河地方へは品野の隣村であった八草村をはじめとし、猿投上切、足助近岡、藤岡北一色などに伝わりました。
天正3年(1575年)、岩崎城主丹羽勘助忠次の家臣、鎌田兵太寛信が農具を用いて野武士や野盗に対応する技を編み出し、農民を始動したことが鎌田流の始まりです。
その後、岩崎城主の丹羽氏次が伊保城に移住し、伊保神社で棒の手の奉納を行ったことで三河各地に鎌田流が広まったとされています。
天明3年(1783年)に宮口村の深田佐兵満孫が免許皆伝を得たことで三河鎌田流の開祖となり、満孫の門下に入る人は百余村から集まるほどの人気となりました。
棒の手の演技も時とともに変わり、裏物である槍や長刀、十手、鞭を取り入れ、目録二七手の他に新たに二一手の棒の手を編み出しました。
伝授の方法は個人には行わず、宗家を継承する人に総目録として口伝で行われます。
那古野村(現名古屋市)の武芸者、起倒治郎左衛門が天正年間(1573年~1592年)に編み出した流儀とされています。
当時は戦乱が絶えず、地方の豪族たちは農民の養成に力を注いでいました。この流儀は槍を得意とし、実践向きだったこともあって入門者も多く有名であったと伝えられていますが、文献に残っているものはなく、はっきりしたことはわかっていません。
慶応2年(1866年)に松平村大楠に伝わり、三河地方の宗家師範となり、三河山間部、東三河までも伝わりました。この流儀では師匠から免許目録を授かる場合に、目録とは滅に極意秘伝明細書が伝承されます。内容は、棒、槍、薙刀など全種目にわたり、一手ごとに掛け声と身振り動作を書き留めたものとなっています。
今村(現瀬戸市)の剣客僧藤牧沙門が享保年間(1684年~1687年)に編み出した流儀で、以前から行われてきた検藤流と高縄石清流に自らの藤牧流を合流したものです。
武道では、他流との合流は考えられないことですが、平和な時代となったことで剣士も仕事を失い、生きるために農民と接触してよりよい演技をすることを考えた結果が、流儀の合流に繋がったと思われます。
検藤流派棒の手の基本となる棒術を、藤牧流は真剣早物技、高縄石清流は剣術を極意としているため、演目にもこれらの得意技が含まれています。
この流派も尾張を中心に広まったのですが、明治6年(1873年)に篠原に伝えられ、その後上伊保、四郷下古屋、旭杉本へと広まりました。